稲盛和夫はKDDIの創業者として、常に第一線で活躍してきましたが、そのスタイルは宗教的とも揶揄されました。
経営にはある程度の理念が必要ですが、稲盛氏の理念はある種のイズムであり、宗教的だったのです。
では、稲盛和夫イズムが宗教的と言われる理由について、紹介します。
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1.「日々の精進で魂が磨かれる」
稲盛和夫は常々、「日々の精進で魂は磨かれる」と言っていたため、その考え方が宗教的と言われてきました。
稲盛氏は日々、魂を磨くための生き方を実践してきた人です。
魂を磨く、という言葉は、一見すると宗教的にも思える言葉です。
魂を磨く修行などというと、お寺などでの修行を思い浮かべる人もいるでしょう。
ですが、稲盛氏はそれを日々の中で実践してきました。
稲盛氏がしていたことは「仕事を好きになり、一生懸命精魂込めて働くこと」です。
それは、社会人であれば、誰でもが行うべきことなのかもしれません。
でも実際には仕事が嫌いであったり、職場が嫌いと言う理由で、誰でもが「精魂込めて働くこと」が出来ていないのです。
ですから稲盛氏は、自分が創業した社内においても、「魂を磨くこと」の重要性について語ってきました。
それでもやはり、「魂を磨く」という言葉の持つ宗教的な側面ばかりがピックアップされ、稲盛和夫は宗教的な考え方をしている、と思われてしまっていたのです。
2.信仰心を持っていたから、宗教のようだと言われた
稲盛和夫が宗教的だといわれる理由には、稲盛氏自身の信仰心も影響していました。
稲盛氏は、1997年に臨済宗の寺で、僧侶として在家得度しています。
在家得度とは、一般的な生活を送りながら出家をすることです。
ですから、経営者ではなく、僧侶として徳などについて語ることは、何の違和感もないのです。
稲盛氏は、この考え方を経営に応用していきました。
例えば「会社が宗教になってしまえば、給料が安くても従業員は付いてくる」という考え方です。
稲盛氏の考え方による経営は、私たちから見ればいわゆる「ブラック企業」になりかねません。
経営をする側の人間は「トップとして金銭と労働者を結びつけるべき」か、それとも「指導者として思想的な結びつきを作るべきか」というのは、会社のあり方で変わってきます。
稲盛氏の場合、後者に特化した人物であったといえるでしょう。
労働者と思想的な結びつきを強めていくことが、稲盛和夫が宗教的と言われてしまう所以なのかもしれません。
3.京セラフィロソフィと呼ばれる人生哲学を稲森和夫は語っていた
稲盛和夫が経営する京セラには「京セラフィロソフィ」と呼ばれる企業哲学があり、これが宗教的であるという意見もあります。
「京セラフィロソフィ」とは、稲盛氏の体験や経験に基づいてつくられた、企業哲学であり、人生哲学です。
京セラグループでは、一般の道徳に反しないように、「人間として正しいこと」を基準に判断をしています。
人間が本来持っている良心に基づいて判断を行い、基本的な倫理観や道徳観を大切にしています。
簡単にいうと、「京セラフィロソフィ」は、道徳を基準にして判断を行っています、ということです。
この企業哲学は、人間的思想に沿ったものになっています。
ですから、道徳や倫理観というものを重んじているのです。
道徳や倫理観を全面的に押し出した哲学は、ある意味において宗教の理念に通じるものがあります。
稲森和夫が宗教的であるといわれる理由には、「京セラフィロソフィ」の存在があるのかもしれません。
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